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●ペルソナ、ジュブナイル、“認知”……気になるアレコレの深層

 アトラスより発売中のRPG『ペルソナ5』。週刊ファミ通では、本作の発売を記念し、アトラスのディレクター・橋野桂氏による特別なコラムを3号連続で掲載した。通常のインタビューではなかなか踏み込まない、しかし知っておくとゲームプレイの味わいが増す、そんな深みが感じられるコダワリのお話を、当記事より前後編で全文公開しよう。もちろん物語のネタバレはないので、安心して読んでほしい。
(聞き手・構成:編集部 川島KG)

●『ペルソナ』シリーズが“学園ジュブナイル”である理由

 『ペルソナ』シリーズは第1作より、学園を舞台にした“ジュブナイルRPG”として、作品ごとにさまざまなテーマを据えて高く評価されてきた。ジュブナイル(juvenile)とは、英語で“少年期の”、“少年少女向けの”といった意味を持つ言葉。だが、『ペルソナ』シリーズは、文字通りに“少年少女向けのRPG”と訳すだけでは形容しきれない味わい深さがある作品だ。橋野氏によるジュブナイルの解釈も興味深い。

 「ジュブナイルの物語はどうあるべきかを考えてみると、それは若者が大人になる過程を描くもので、大人になるとはどういうことかを定義するなら、まわりの誰かではなく自分の価値観で世界をとらえ、物事を選び取る力を得ることではないかと思います。それはたとえば、“批評”できる力と言い換えてもいいかもしれません。

 かけがえのない学生時代の経験は、それをともにした仲間、場所、娯楽などの思い出とあわせて、社会人になってからもずっと強く残りますよね。なおかつ、卒業とともに別れが訪れ、社会に出て、これからは自分の頭できちんと考えていかねばならない人生の転機を、誰もがきっと通過してきたはず。そんなときに、人間関係なり作品なりで多様な価値観に触れておくと、自分で少しは地に足のついた考えかたができたり、他人の声に対して自分の意見を言えるようにもなる。“批判”ではなく、“批評”できる力を身に付けてこそ、その思いが他者に伝わり、もしかしたら世界を変える力にもなるかもしれない。その一助になりうる作品として、ジュブナイルというジャンルをとらえています。

 僕が『ペルソナ3』の企画を考え始めたのは、海外で戦争が激化していたころで、つねに死と隣り合わせで懸命に生きている現地の人々と、平和に暮らす日本の若者たちとの姿があまりにもかけ離れていた。それを痛感させる戦場ジャーナリストの記事などを目にしたことが、新しいゲームの企画を考えるひとつのキッカケになりました。悪く言ってしまえば“平和ボケ”している僕たちの中にも、いま目の前にある楽しいことがずっと続くと思っていて大丈夫なのか、自分の生きかたを人任せにしていいのか、といったモヤモヤを心のどこかに抱えている人はきっと少なくないだろうと。そんな中で、ゲームならではの刺激ある体験をお届けしたいと思い、企画したのが『ペルソナ3』なんですね。作品ごとにテーマは違えど、ゲームをプレイされた方が、そこから何らかの価値観を見出し、現実の光景が以前とは違って見えてくるような内容を目指したいという思いは、『ペルソナ4』や『ペルソナ5』でも一貫しています」。

 『ペルソナ』シリーズはその名の通り、ペルソナと呼ばれる“心の力”を召喚する能力に目覚めた少年少女たちの物語だ。心理学におけるpersonaは、“社交の顔”、“仮面をかぶった人格”といった意味の言葉。『ペルソナ5』の主人公たちが召喚するそれぞれの専用初期ペルソナは、その姿と名前が有名なピカレスク・ヒーローを想起させるが、橋野氏いわく、ペルソナという存在の定義自体は、根本的にはこれまでの作品と変えていないという。

 「僕がディレクターを務めた『ペルソナ3』以降の作品に関してお話しします。人間が、家族や学校、会社といったコミュニティーに対応して持つさまざまな顔を“仮面”とするならば、すべての仮面を剥いだら本当の自分が表れるという考えかたもできますけれど、『ペルソナ』シリーズにおいては、仮面で本当の自分を隠しているというよりも、すべての仮面が紛れもなくその人の顔であって、いろいろな顔ができてこそ成熟した大人であると定義しています。主人公たちの敵として登場する“シャドウ”は、心理学的には“見て見ぬフリをしている自分自身の顔”を意味するもので、『ペルソナ4』ではまさに自分のシャドウと正面から向き合い、見たくない自分の一面を認めることで、それをペルソナとして行使できるようになる、ひいては大人に一歩近づくという展開にしました。

 そして『ペルソナ5』では、まわりの環境によって自分らしさを抑圧され、未来まで奪われそうになっている主人公たちが、荒ぶるシャドウとも言うべき“本音”を鎖でつなぎながらも解き放つ。そうすることで、世界を変えていくような力強さのあるペルソナが発現する。これが、ジュブナイルRPGでピカレスク・ロマンを描こうとしたときの、“ペルソナ”の解釈です。現実で本音を爆発させたら社会的にうまくいかないことも多々あると思いますが、ふだんは抑え込んでいる想いこそが、人の個性の源だったりもしますし、それを大いに発散していく本作のゲームプレイで、スカッとした心地になってもらえればと。プレイを終えた後、皆さんが前向きに何かをするひとつのキッカケとして本作が貢献できるようなことがありましたら、作り手として感無量です」。

●人の“認知”と“ペルソナ”の関係

本作でしばしば登場する、“認知”というキーワード。人は皆、聞きたいように聞き、信じたいことだけを信じる──。『ペルソナ3』や『ペルソナ4』をプレイした人なら、主人公に対してこのようなことを言い放つ相手に覚えがあるだろう。『ペルソナ5』で悪しき大人が形成するパレスも、己の望むがまま、思い込むがままの光景が広がる、心の異世界だ。モルガナがパレスのことを説明するときなどに言う“認知”という概念は、各作品の物語におけるひとつのテーマとなっているようにも感じられる。これについて、橋野氏は語る。

 「人間、何事もポジティブに考えれば前向きになれるし、つらいと思えば足取りが重くなる。そのような“認知”を自分でコントロールできるようになることも、成熟した大人になるひとつの通過儀礼ではないかと解釈しています。『ペルソナ5』では、大人の自分勝手な欲望が具現化したパレスを始め、人間の“認知”が本作のさまざまな要素、描写に影響しています。たとえば、主人公たちはパレスに潜入すると怪盗姿に変わりますが、これは、パレスの主によって反逆者と認識されたために変身するわけです。なおかつ、その具体的な姿は、主人公たち自身の心に眠る、ペルソナ使いとしての意志の表れだからこそ、まったく異なる認知を持った別の大人のパレスにおいても同じ怪盗姿になるんですね。

 また、自分の目に映っている世界は、本来自分の認知に基づいた世界でしかなくて、しかし見かたを変えれば、つらいと思っていたことにも新たな価値観を見出せたりします。そうして気持ちが楽になったり、何らかの有益な発見ができたとしたら、幸せなことではありませんか。それを求めるなら、学校や社会でいろいろな相手とのコミュニティーを持たないと難しいので、『ペルソナ3』と『ペルソナ4』では“コミュ”、『ペルソナ5』では“コープ”のシステムを通じ、他者と交流できるようにしました。その観点において、僕たちが作っている『ペルソナ』シリーズ自体もまた、プレイされる方にとって価値ある出会いのひとつになることができたら、とてもうれしいです」。

 コープで育んでいく他者との関係は、“心の仮面”であるペルソナの強化につながる。また、コープを結ぶ相手が増えるほど、多様なペルソナを生み出しやすくなる。ここにも、作品のテーマに則した理由があるという。

 「大人になって社会に出ると、たくさんの相手との付き合いが始まり、そうした中で自分の本音にも向き合いながら生きることになります。少数の人と深く付き合ったり、大勢の人とSNSでつながったりと、コミュニティーの築きかたは人それぞれでよいと思います。ただ、コミュニティーに合わせてさまざまな顔──ペルソナを柔軟に使い分けられる人のほうが、社会に対して示せる自分の姿を多く持つことになるはず。ひいてはそれが、生きていくための力にもなるでしょう。『ペルソナ3』以降の作品でコミュニティーの要素を入れたのは、ふたつの側面──高校生が大人になっていく“学園ジュブナイル”でありつつ、人間関係の概念たる“ペルソナ”を扱うシリーズであること──を踏まえてのゲームデザインです。

 『ペルソナ5』では、キャラクターがペルソナ能力に目覚めるとき、顔の仮面を剥いで血みどろのようになりますよね。あれは、自分の心の内にある本音、反骨心、個性の根源みたいなものが溢れ出ているイメージです。ゆがんだ欲望を持つ他者に対し、立ち向かう気構えを持つからこそペルソナが覚醒し、その姿は、相手の認知からすると反逆者としてゆがんでいるために、キャラクターもペルソナも荒々しく、アウトローっぽくなるわけですね。そして主人公だけは、“ワイルド”と呼ばれる特別な素養を持ち、コープで育んだ絆を糧として、持てる顔を使い分けながら困難を切り拓いていくのです」。

初出:
週刊ファミ通2016年9月22日号、2016年9月29日号

 後編(近日公開)では、『ペルソナ3』以降の作品において重要な役割を担ってきた、“タロットカード”に焦点を当てる。

http://www.famitsu.com/news/201610/08117805.html?page=2