プロローグ
時代は、後漢末期、西暦180年頃。
400年続いた漢朝の力も衰え、世の中は荒れていた。
民衆は飢え、役人は私利私欲をのみ満たすようになっていた。
そんな時代、「張角」という男がいた。
張角は太平道という宗教を立ち上げる。
張角は仙人にならったという秘術により、民衆の病を癒やし、民衆の支持を得ていった。
しかし、太平道は当初の志を忘れ、軍事組織とかしていく。
太平道は黄色い布を組織の印としていたため、黄巾(賊)と呼ばれるようになる。
張角率いる黄巾族は、各地で乱を起こすようになる。
『蒼天已に死す。黄天まさに立つべし。時は甲子にあり。天下大吉ならん。』(漢朝はすでに死んだ、黄色の旗印の戦士たちよ立ち上がるのだ!我々は天に守られている!天下をよくしよう!的な意味)
劉備の登場
涿(たく)郡涿県楼桑里(今の北京周辺)に劉備という男がいた。
貧しい身であったが、音楽や美しい衣服を好み、親孝行で正義感の強い男であったため、多くの人間に好かれていた。
劉備は、日々、むしろ(※地面にしく敷物)を売って生活していたが、ある日、自分が漢朝の血を引くものであることを知る。
劉備は、関羽・張飛という2人の豪傑に出会う。
そして、三人は、民衆のため、漢朝のため、義兄弟の契りを交わし、ともに生涯戦うことを誓うのであった。
「我ら三人、生まれし日、時は違えども兄弟の契りを結びしからは、心を同じくして助け合い、困窮する者たちを救わん。上は国家に報い、下は民を安んずることを誓う。同年、同月、同日に生まれることを得ずとも、同年、同月、同日に死せん事を願わん。皇天后土よ、実にこの心を鑑みよ。義に背き恩を忘るれば、天人共に戮すべし。」
劉備・関羽・張飛の三人は義勇軍(自衛団)を立ち上げ、各地の黄巾の乱との戦いに向かった。
その後、劉備・関羽・張飛らはその武で官軍の元、功を立てていくこととなる。
黄巾討伐後の内乱と曹操
各地の将軍の活躍で、黄巾の乱は次第に討伐され、張角も病死する。
※今と違って、病死する人は圧倒的に多い。
黄巾の乱は平定されたものの、朝廷では派閥争いが起こっていた。
「十常侍」と呼ばれる宦官の集団と、大将軍何進の軍閥である。
十常侍:張讓(リーダー)、趙忠、夏惲、郭勝、孫璋、畢嵐、栗嵩、段珪、高望、張恭、韓悝、宋典
宦官とは皇帝のプライベートな場所であり、皇后たちのいる後宮で使えるため、男性のシンボルを切除した役人達である。
何進は全軍の最高司令官であったが、姉が皇后に選ばれたため、出世できただけの無能な平民出身の男である。
平民出身にも優秀な人間は大勢いたが、残念ながら何進はそうではなかった。
軍の最高司令官でありながら、派閥争いを収集する武力を行使することすら決断できなかった。
何進は、派閥争いを収めるため、各地の諸侯を中央に集める激を飛ばす。
しかし、これを憂う男がいた、曹操である。
曹操は、もともとは漢朝の創世記の名門の貴族であったが、現在は落ちぶれた三流貴族出身の男である。
この時、曹操はまだ一人の名も無き武官に過ぎなかった。
しかし、曹操の才を高く評価する人も多く、勇名な人物鑑定家から、「君は平和な世であれば、優れた大臣に、乱世ならば覇者になるだろう」と評された。
また、後に天下をかけて戦う名門貴族の袁紹も幼いころから、曹操を高く評価していた。
曹操は『派閥争いを収めたければ、責任者だけを倒せばいいだけのことだ。これでは世の中に朝廷の乱れを知らしめることになり、逆に世は荒れるだろう。』と予言する。
後に、曹操の予言は的中することとなる。
しかし、何進の策がなる前に、十常侍は何進を騙して呼び出し、殺害する。
これに対し怒り、報復をおこなったのが、何進の軍閥であり、その中心人物が袁紹である。
袁紹は三代続けて、三公(総理大臣のような大臣職)を排出した、名門貴族の出であり、若い頃は曹操の悪友でもあった。
袁紹は何進を殺されたことに激怒し、宮中の宦官を皆殺しにした。
宦官になると髭が生えなくなるので、髭がないという理由だけで殺されてしまったものや、宦官でないことを証明するため、下半身を露出するものもいたが、宮中は血の海とかした。
十常侍の筆頭、張讓は幼い皇帝とその弟、陳留王(劉協)を連れて、宮廷から逃げ出すが、進退窮まり、自殺してしまう。
董卓の専横
宮中を脱出した幼い皇帝とその弟、陳留王はさまよった後、董卓将軍に保護される。
董卓は剛力の猛将であったが、黄巾の乱では大した功績も上げられなかった
しかしながら、腐敗した漢の政治は彼を救った。
董卓は賄賂をばら撒き、逆に地位を手にすることができたのである。
董卓が幼帝と陳留王に出会ったとき、陳留王は下馬しなかった董卓に対し、「無礼者、何故、下馬しないか!」と一喝し、董卓を恐縮させた。
また、幼い皇帝は、事態に狼狽し、何もまともに喋ることができなかったのに対し、陳留王は落ち着き、冷静に乱の経緯を話すことができたので、董卓は、弟、陳留王のほうが聡明であると感じた。
宮中に帰ったあと、董卓は皇帝を保護した功績を盾に、軍と政治の権限を掌握する。
しかし、政治の権限をほしいままにするだけではおさまらなかった。
董卓の非道の牙は民衆にまで襲いかかった。
洛陽の富豪を襲って金品を奪い、民衆の村の祭りに当然押し入り、男は皆殺しにし、女は暴行するなど、悪逆の限りをつくす。
董卓の部下も好きなように宮廷の女性に襲いかかり、董卓自身も皇族の女性を自分の欲望のほしいままにした。
これに反対したのが、袁紹・丁原であった。
しかしながら、袁紹にはこの時、董卓と戦う力がなく、都から逃げ出すのが精一杯であった。
丁原には呂布という、武勇にかけては天下に並ぶものがいない天下無双の義理の息子がいた。
董卓は怒り狂い、丁原軍を攻めたが、呂布に簡単に蹴散らされる。
数でまさる董卓軍であったが、兵士は呂布に恐れおののき、だれも戦いたがらなかったのである。
呂布を手強しとみた董卓は、呂布を寝返りをさせる策を考える。
呂布は武勇においては並ぶものがなかったが目先の利益に弱い男であっため、「赤兎」と呼ばれる名馬と、金品で簡単に寝返り、丁原を殺害、董卓側についた。
呂布を味方にし、怖いもののなくなった董卓は皇帝を廃立、殺害、陳留王を新しい皇帝とした。
これが後の献帝である。
曹操の董卓暗殺未遂事件
朝廷ではだれも董卓に逆らうことができなかった。
そんな、無力で嘆いているばかりの重臣達をみて、呆れ、義憤にかられる男がいた。
曹操である。
董卓の専横に憤りを感じていた曹操は董卓を暗殺することを計画する。
幸い曹操自身は董卓に気に入られていたのである。
曹操は、一人で董卓の背後に近づくことに成功する。
しかし不運にも、鏡に刀の光が反射し、董卓に気づかれてしまう。
その場は、「董卓様に刀を献上しようとしました。」と誤魔化して、その場を逃げることに成功するが、殺意を見抜かれ追撃される。
その逃避行の道中に陣宮という、同じく、世を憂う武将と出会う。
曹操と陣宮は逃避行の途中で、呂伯奢という曹操の父の友人を頼ることになる。
呂伯奢は快く、曹操らを匿った。
ある夜、呂伯奢の家族の者たちの「殺せ」という話し声や、使用人たちが武装する音を聞き、自分たちを殺そうとしているのだと思い、先手をうち皆殺しにする。
しかし、それは曹操達に豚を殺して振る舞おうとしており、武装する音は食器を用意する音を聞き間違えたものであった。
曹操は後悔したが、やってしまったものは仕方がないと開き直る。
「たとえ、自分が人を裏切ろうが、他人が自分を裏切るのは許さん。」と一人つぶやく。
それを聞いた陣宮は、「曹操は恐ろしいことを言う人間だ、志を同じくできる人間ではない。」と、曹操のもとを去ることとなる。
後に2人は戦うことになるのである。
もっとも、曹操はこの発言とは裏腹に自分から、裏切ったり、同盟を破棄したことはない。
反董卓連合軍
故郷に返った曹操だが、自分ひとりの力では董卓を倒せないことを思い知った。
そこで、父の力をかり、自らの軍を集めた。
ここで、集まったのが夏侯惇らである。
さらに、各地の諸侯に檄文をだし、董卓打倒を目指す。
これに対し、董卓に反感を持つ袁紹はじめ、同じく袁氏で名門の袁術や、南方の豪族で後の孫策・孫堅の父である孫堅ほか、末席には劉備一行も加わるなど、各地の諸侯があつまり、反董卓連合軍が結成された。
連合軍の盟主はもっとも力のあった袁紹となった。
かくして、反董卓連合軍と董卓軍の戦いが始まった。
董卓は連合軍を討つべく、華雄将軍を派遣した。
董卓軍は強く、華雄により連合軍は苦戦することになる。
圧倒的な華雄将軍の前に次々と討ち取られていく、連合軍の将軍達。
「だれか、華雄を打ち取れるものはおらんのか!?」焦る袁紹。
ここに名乗りを上げたのが、劉備配下の関羽である。
しかし、この時の劉備は名も無き武官であり、関羽もまた一兵卒に過ぎなかった。
関羽が一兵卒に過ぎないということを聞いて、「一兵卒が下っていろ!」と恫喝する袁紹。
しかし、曹操は「やらせてみよう、今更、体裁は気にしていられない」と袁紹を説得。
かくして、華雄討伐に向かう関羽。
華雄討伐前に、「景気づけに一杯」と曹操から酒を進められる関羽であったが、「すぐに返ってくるので、祝杯にさせて頂く」と華雄討伐に向かった。
敵陣に向かったと思うと、すぐに戻ってきたため、諸侯は不思議に思ったが、手に下げていたのはなんと華雄の首であった。
酒もまだ温かいままであったため、諸侯は関羽の武に驚愕した。
華雄死亡に驚いた董卓は、とうとう呂布を戦場に送る。
次々と連合軍を蹴散らす呂布であったが、劉備・張飛・関羽の三兄弟も三人がかりでかかり、さすがの呂布を倒せないながらも、連合軍は呂布軍を退却させることに成功する。
長安遷都
呂布敗退に焦った董卓は洛陽をすて、西の長安への遷都を計画する。
しかも、政府組織だけでなく、住民全員の移動を計画したこともあり、多くのものが反対した。
そこで、董卓は反対者を皆殺しにした。
洛陽は董卓により焼かれ、ついでとばかり皇帝の墓は暴かれ、埋蔵品なども全て董卓に奪われた。
曹操は袁紹に董卓追撃を進言するも、意見が合わなかったため、単独で追撃する。
しかし、董卓軍により手痛い反撃を受け、そのまま故郷に帰ることにかえることになり、連合軍も徐々に瓦解していくのであった。
孫堅
連合軍に孫堅という将軍がいた。
中国南部の出身で海賊狩りで功を上げていた勇猛な将軍であった。
孫堅は焼け野原となった、都、洛陽を見回りしていたが、ある時、井戸から『何か光るもの』を見つける。
それは、皇帝のみが持つことを許される玉璽であった。
玉璽は、始皇帝から漢の初代皇帝劉邦こと高祖に受け継がれ、漢王朝に代々受けつがれていた皇帝の証であった。
「これは自分に皇帝になれという天啓か?」そう考えた孫堅は玉璽の存在を総大将である袁紹に隠し、故郷にもちかえることにした。
しかし、これを袁紹に密告したものがいたため、袁紹から追撃を受けることになる。
その後、反董卓連合軍は瓦解、さらに反董卓連合軍の総大将の袁紹と、連合軍の主力の一人であり、袁紹の親戚である袁術が対立。
孫堅は袁術側についたが、戦争の中で散る。
孫堅の跡を継いだ、長男孫策は袁術のもとにその勢力を吸収されることになる。
王允と貂蝉
反董卓連合軍が瓦解し、ますます悪逆の限りをつくす董卓。
王允という大臣がいた。
王允自身は董卓に気に入られていたものの、王允は董卓の専横を許しがたく思っていた。
王允には貂蝉という養女がおり、王允は貂蝉を実の娘のように可愛がっていた。
舞踊にすぐれた美女であった。
そして、貂蝉も育ての父である王允に恩返しをしたいと考えていた。
王允と貂蝉は呂布と董卓の仲を裂くべく、奇策にでるのであった。
ある時、王允は董卓を自宅の酒宴に招いて、そこで、貂蝉を紹介した。
すぐに、貂蝉に魅了される董卓。
そんなにお気に召したならば、と貂蝉を側室にすすめる王允。
貂蝉の美貌に魅了された董卓は断る理由もない。
その日は一旦董卓は帰って、吉日を選んで、貂蝉を側室に送ることとなった。
その後、今度は、呂布を酒宴に招く王允、そこでも貂蝉を呂布に紹介する。
たちまち、貂蝉に魅了される呂布。
同じように、貂蝉を妻にすすめることとなる。
喜んで帰る呂布であったが、数日後、王允は董卓のもとへ貂蝉を送った。
当然、呂布は激怒し、王允を問い詰めるが、董卓に強引に奪われたと説明する王允。
貂蝉とも密会したが、やはり董卓に強引に連れて行かれたと泣き崩れる貂蝉。
さらに、貂蝉との密会の場を董卓に見つかり、詰問される呂布。
これを見ていた董卓の参謀、李儒は「女など呂布にやってしまいなさい。」と進言。
一度は聞き入れようとするが、貂蝉に未練のある董卓は貂蝉を手放さない。
李儒は「我々は女の手にかかって死ぬのか!」と空を仰いで嘆いたという。
呂布は、貂蝉からは「呂布将軍と一緒になれず、このまま董卓にもとにいるくらいなら、死にます。」と泣きつかれ、王允からは「自分も娘を董卓に奪われ、世間から笑われている。自分はともかく、呂布将軍も女を父(董卓)に奪われたと笑われているのが申し訳ない。董卓は世間から恨まれ、董卓をうてば、呂布将軍は英雄です。」と反逆を促され、ついに反逆を決意する。
ある日、董卓のもとに皇帝から、皇帝の座を譲りたいという使いがやって来る。
何の疑いもなく、喜んで宮廷に向かう董卓。
しかし、そこに待っていたのは、呂布だった。
「勅命により、逆賊・董卓をうつ!」
悪逆の限りを尽くした董卓は呂布により打たれたのだった。
策謀から始まった貂蝉と呂布との出会いであったが、貂蝉は呂布の強さと自分への思いに心を打たれたのか、貂蝉と呂布はいっしょになることができたのであった。