この記事は948で読めます。

前回の記事:董卓死亡後~袁紹滅亡後

孫策から孫権へ

南方(呉)を平定した孫策は、北方の袁紹と戦っている曹操の背後を南からつき、曹操の本拠地許昌を攻めようとした。

しかし、過去に滅ぼした勢力の残党によって襲撃され、その傷がもとでわずか26歳死亡する。

かくして孫家の後継は孫策の弟、孫権が次ぐことになる。

孫策は孫権に遺言した。

「兵を率いて、天下を平定するようなことはお前は俺に及ばないが、人をまとめて、呉の領土を守っていくことはお前のほうが上だ。内政のことは張昭に、戦争のことは周瑜によく相談するように。」

このとき孫権19歳。

曹操

袁紹を滅ぼした曹操はこれにより、中国の北半分をほぼ平定。

残るは中国中央部ならびに南中央部に位置する荊州の劉表、中国南東部・江東(呉)の孫権、中国南西部・益州(蜀)の劉璋、中国北西・西涼の馬騰、中国西部・漢中の宗教軍閥、五斗米道の張魯、そして、流浪の劉備であった。

劉備と諸葛亮

劉備は皇族である荊州の劉表の元に身を寄せ、「新野城」という対曹操最前線の小城を与えられていた。

曹操が北方を平定中、劉表に曹操の後方をつくように進言したが、外征というか、漢朝の未来にそもそも興味がない劉表には聞き入られなかった。

劉表は荊州さえ安定していれば良かったのでる。

曹操も劉備の存在を無視していたわけでなく、夏侯惇や于禁といった将軍を派遣したが、劉備はこれを退けた。

このころ、劉備は諸葛亮孔明の噂を聞きつけ、三顧の礼をもって迎える。

この時、劉備45歳、孔明25歳。

25の当時無名の若者に、歴戦の勇者である皇族が三回も頭を下げに訪問したのである。

劉備の優れていたことは人を見る目であった。

孔明は無名の書生であったが、劉備の目に狂いはなかった。

劉備の弱点は個々の戦争では勝利するものの、大局を見ることができる軍師の存在が不在であり、劉備自身もその弱点を痛感していたのだ。

曹操は董卓・袁紹・呂布など常に自分に何倍もする勢力と戦い、最終的には勝ってきた。

それは、曹操自身が大局を見る目を持ち、郭嘉・荀彧・荀攸といった、数多くの参謀に支えられて来たからである。

曹操自身も「劉備は自分と互角だが、策を考えるのがやつのほうが少しだけ遅いな。それだけが自分とやつの差だ。」と評した。

その差が、中国の半分を手に入れた曹操と未だ流浪の劉備の戦力差となっていたのである。

諸葛亮との出会いにより、劉備の雄飛が始まることとなる。

劉表の死と曹操の南下

やがて劉表が病死すると曹操が南下を開始する。

劉表は跡目を次男の劉琮(りゅうそう)にしたかったが、長子は劉琦(りゅうき)であったため正式に決めきれなかった。

そのため、劉表の妻の親戚である蔡瑁(さいぼう)ら軍閥が、劉表の次男・劉琮を後継にたてる。

劉琮一派は曹操に対し早々に降伏を決めた。

諸葛亮は劉備に劉琮を攻め、荊州を取れば、曹操とも互角に戦えるので、劉琮をせめるように進言するが、劉備は恩人である劉表の子を攻められない。

さらに南方へ落ち延びることにした。

民衆も劉備を慕って後を追った。

劉備軍だけなら、すぐに逃げられたが、民衆には老人・女・子供も当然おり、歩きながらのゆっくりの移動であったので、曹操軍に追いつかれるのは時間の問題だった。

家臣からは民衆を捨てて逃げるように進言されるが、劉備はそれはできないと、聞かなかった。

劉備の心は常に民衆とともにあった。

やむなく、関羽だけが先行して南方の劉琦に援軍の要請に向かった。

曹操は100万の兵で劉備を追ったが、民衆を守りながらも、劉備軍は善戦した。

曹操軍は大軍を有しながらも、諸葛亮の策、張飛・趙雲らの武勇の前に阻まれ、劉備を追いきれなかった。

この時、劉備は、赤子である嫡子、劉禅とはぐれてしまうが、趙雲が曹操軍100万の中を一騎で駆け抜け劉禅を救出、曹操を感嘆させた。

また、張飛は100万の軍を前に、わずか20騎ほどで、長坂橋という橋の前で立ちはだかった。

狭い橋では張飛と一体一にならざるを得ないので、曹操軍はだれも張飛を倒せず、立ち往生した。

また、諸葛亮の策を警戒したこともあり、実質的に張飛一人を前に、100万の軍は一時、退却を余儀なくされた。

かくして、劉備は南方へ逃げ延び、劉表の長男である劉琦の後見となった。

そして、呉の孫権に曹操との共闘を持ちかけるとなる。

諸葛亮は呉に使者として向かうこととなった。

この時、劉備・孫堅同盟軍と曹操軍の決戦後の世界を、頭の中で正しく描いているのは諸葛亮だけであった。

赤壁の戦い

呉では降伏派と主戦派に分かれていたが、諸葛亮の説得もあり、孫権は曹操との開戦を決意する。

降伏派は尚も孫権を説得しようとしたが、孫権は皆の前で机の角を切り捨てて、こういった。

「今後、降伏などと言うものがいれば、この机の様に切り捨てる」と。

戦いは長江で行われた。

曹操軍の殆どは水上での戦いに慣れておらず、疫病も蔓延し、周瑜率いる呉の水軍に徹底的に打ち破られた。

この大敗で曹操は旧劉表領(荊州)のほとんどを失うこととなる。

曹操自身も焼け死ぬ一歩手前で、本拠地に逃げ帰った。

曹操は「郭嘉が生きていれば、こんな結果にはならなかっただろう・・・」と嘆いた。

孫呉はその強さを曹操軍にまざまざと見せつけた。

しかし、この孫呉の武勇も諸葛亮の掌の上に過ぎなかった。

赤壁の戦いの後、呉軍は荊州を平定するつもりであったが、曹操軍撤退後、劉備軍が電光石火で動いた。

荊州の全てを劉備軍が占領したのであった。

諸葛亮の狙いは、曹操と孫権を争わせ、劉備軍がそのスキにほぼ無傷で荊州を占領することであり、その狙い通りであった。

孫権軍は悔しがり、劉備軍に荊州の譲渡を迫ったが、もともと劉表の遺児である劉琦が存命なこともあり、その後見人である劉備に強く言うことができなっかた。

やむなく、周瑜は劉璋の益州を攻めることを計画したが、周瑜は若くして病死、計画は実行されることはなかった。

曹操は再び戦いへ

赤壁で大敗した曹操であったが、休む間もなく、西涼(中国北東部)の馬騰の息子、馬超が反乱を起こす。

馬超の勇名は周辺異民族にまで轟いており、その強さと戦場での勇ましさから「錦馬超」と恐れらた。

武と武の勝負では馬超に分があった。

開戦当初、曹操は馬超に真正面から戦いを挑んだが、徹底的に打ち破られた。

曹操は馬超を「呂布に劣らない」とまで評価し、武の戦いでは不利と考え、策士賈詡(かく)の進言により、馬超軍に仲間割れの策を仕掛ける。

疑心暗鬼にかられた馬超は曹操に打ち破られ、漢中の張魯を頼ることになる。

劉備益州へ

荊州を得た劉備の元へ、益州の劉璋から同族である劉備をたよって、救援要請が来る。

それは、『漢中を支配する五斗米道の張魯の勢力が強く、救援して欲しい』とのことであった。

しかし、救援要請の使者である張松・法正らは、すでに乱世になにもできない劉璋を見限っており、これを機会に劉備に益州を取ってしまうようにすすめる。

同族でしかも自分を頼ってきた劉璋を攻めきれない劉備であったが、自分の優柔不断が原因で家臣を死なせてしまい、劉璋を討つことを決意する。

そして、ついに劉璋の本拠地である成都を包囲する。

さらに成都を包囲していた劉備の元に、張魯の元から、馬超が降伏してくる。

馬超は張魯を頼ったものの、張魯の器量では馬超を扱えなかっため、失望、却って身の危険を感じたため出奔したのである。

馬超を迎えた劉備は「私は益州を手に入れたぞ」とよろこび、馬超の勇名を知っていた劉璋は直ちに降伏した。

降伏の条件は「民を安んじること」との立派なもので、劉璋降伏後、劉備も劉璋をてあつく迎えた。

曹操、魏王に

一方、曹操は家臣らの勧めで、「王」の座につき、漢の形式上の属国としての「魏」を建国した。

劉氏以外が「王」になることはタブーであったが、曹操がこれを破ることとなる。

もはや漢室は形式上のものとなっており、実質的には曹操が最高権力者であった。

その後も、家臣の中には簒奪(皇帝の座をうばうこと)をすすめるものもいたが、曹操自身は、簒奪は固辞した。

その後、張魯の支配する漢中を平定した。

そのまま、劉備の支配する益州への進言をした家臣もいたが、このときは却下した。

また、このとき益州への進言をした将軍の一人が、後に諸葛亮との戦いを繰り広げ、三国志のエピローグをつくる司馬懿である。

劉備、漢中王となる

赤壁のあと、劉表の遺児である劉琦の後見人になるという形で荊州を手に入れた劉備であったが、劉琦が若くして病死、中国南西部の益州を手に入れるまで待って欲しいと孫呉に要請していた。

孫呉は劉備が益州を手に入れたため、荊州南部を譲渡するように再び、迫ったが、劉備は中国北東部涼州を手に入れたら譲渡すると答えた。

涼州は益州のはるか北で、劉備が「返す気がない」と答えたと同じと受け取った孫呉と劉備軍は戦争状態に入った。

しかし、曹操が漢中を支配したため、曹操に驚異を感じた劉備は荊州の一部を譲渡することで孫権と和解、さらに漢中をとったら、のこりを譲渡すると約束した。

劉備は、漢中を守っていた魏の将軍、夏侯淵・張郃を撃破、その後、曹操本隊も戻ってきたが、これも撃破し、漢中を奪った。

その後、曹操が魏王を名乗ったことに対抗、漢中王を名乗った。

元々皇族の劉備が王を名乗ることに皇帝は反対もなく、喜んで認めた。

関羽の死

漢中平定後も劉備は呉に荊州を譲渡する気がなかったため、孫呉は荊州を攻めようとし、呂蒙将軍を派遣した。

荊州を守るは関羽であった。

呂蒙は勇猛な武将であったが、それ故に関羽も警戒し、全くスキがなかった。

また、荊州を守る関羽は民衆の支持も厚く、兵の統率もよく、呉の兵からも軍神と恐れられ、関羽とまともに戦って勝てる気がしないので呂蒙は全く手が出せずにいた。

そんなとき、魏で反乱がおこり、それを援護するため、関羽は魏を攻めた。

関羽の圧倒的な武力に勝てる武将はなく、一時は曹操も遷都を考えるほど狼狽えた。

しかし、曹操の参謀、司馬懿らが孫権に長江南を支配を認めることを条件に、関羽を討つようにすすめることを曹操に進言。

呉は武名のあった呂蒙を下がらせ、全く無名の武将、陸遜を抜擢した。

陸遜も関羽を油断させるため、へりくだった態度をとった。

呉が裏切ったことを知らず、無名の陸遜に油断した関羽は、呉への警戒を緩める。

更に、味方の裏切りに会い、劉備の息子である劉封にすら援軍をことわられ、魏・呉からの総攻撃を受け、さすがの軍神もついに呉に捕らえられ、降伏を拒んだため処刑された。

関羽の首は孫権から曹操に送られたが、曹操はこれを丁重に弔った。

曹操の死

その1年後、曹操も、病のために世を去った。「戦時であるから喪に服す期間は短くし、墓に金銀を入れてはいけない」「司馬懿は頭が良すぎるから警戒するように」
との遺言を残した。

後は息子の曹丕が引き継いだ。

>>つづき