三国志のエピローグをつくるのは司馬懿である。
司馬懿の物語
司馬懿は漢より歴史のある王族の末裔で、名門の出であったため、曹操に使えるのを仮病を使って、断っていた。
しかし、嘘がバレていて、曹操に「引っ張ってでも連れてこい」と使者が言われているのを聞き、命の危険を感じて、杖を投げ捨て、いやいや出仕した。
曹操の晩年は度々献策を行ったが、曹操は頭が切れるすぎる司馬懿を警戒し、司馬懿もそれを知っていたので、敵を作らないように、慎重に行動した。
曹操没後は、曹丕は「司馬懿は警戒せよ」と遺言されていたが、曹丕は司馬懿を重く用いた。
曹丕没後も、その息子、曹叡の元で重く用いられ、軍の最高司令官の大将軍として、諸葛亮と対峙した。
諸葛亮の策を警戒した司馬懿は、諸葛亮とはまともに戦うことはせず、数でまさる魏軍が持久戦で徹底した防衛戦を取り、徹底して負けない戦いをしたため、諸葛亮も為す術がなかった。
諸葛亮の死後
諸葛亮は234年に死亡後、北方の公孫淵の反乱の鎮圧などを行ったが、内では曹操、外では諸葛亮を相手にしていた司馬懿に、もはや内にも外にも敵はいなかった。
曹叡の死後、曹芳の時代に派閥争いに巻き込まれるが、ここで、司馬懿はボケ老人のふりをして政敵である曹爽(そうそう)を油断させ、曹爽留守時にクーデターを起こし、軍権を掌握する。(250年頃)
司馬懿の死後
翌年、司馬懿は病死し、息子である司馬師が魏の大将軍となる。
司馬師は魏の皇帝、曹芳から排斥されようとするが、逆に曹芳を廃立。
曹髦(そうぼう)が新たな皇帝に立てられる。
司馬師はその後も内乱を収めたが、48歳で病死した。
司馬師には男子がいなかったため、弟である司馬昭が跡を継いだ。(256年)
その後も司馬昭は各地の内乱を制したが、皇帝曹髦が司馬一族を廃するために挙兵、逆にこれを倒し、皇帝曹髦を殺害する。
曹奐(曹操の孫)を即位させる。
これが魏最期の皇帝となる。
直接、司馬懿が関わったわけではないが、曹丕が司馬懿を重用したことで、曹操の予言は当たってしまったのである。
諸葛亮没後の蜀
諸葛亮没後、蔣琬や費褘・董允など有能な大臣達が劉禅を支えた。
しかし、それら優秀な人材がなくなるに連れて、国が傾き始めた。
姜維は諸葛亮の意志を次ぐべく北伐を行ったが、成果は得られなかった。
費褘は、「我らの力は諸葛亮様に到底及ばない、その諸葛亮様ができなかった北伐が今、我らにできるはずがない、今は内政につとめ、人材の育成に務めるべきだ」と諌めた。
たしかにこの頃の蜀には優秀な人材は全くいなくなっていた。
しかし、それでも姜維は北伐を繰り返し、内政を顧みなかった。
その為、蔣琬や費褘・董允没後は、劉禅は宦官の黄皓を重用するようになった。
黄皓は劉禅を酒と女で溺れさせ、占いで国の政を行うことをすすめた。
劉禅は内政を顧みず、酒と女に溺れ、内政は混乱した。
劉禅は諸葛亮や、能臣が支えている間は良い政を行っていたが、悪臣がそばいると悪政をしくという、暴君ではないが、何にでも流されてしまう皇帝であった。
蜀の滅亡
263年、司馬昭の命で蜀漢討伐の軍が動かされる。
それを察知した姜維は成都に救援を要請するが、黄皓は「魏は攻めてこない」という占いを信じ、救援を無視するよう進言した。
このため当初、劉禅は救援を送らず、本当に魏がせめてきてから救援を送った。
それでも、姜維は要塞剣閣にて善戦し、魏の将軍、鍾会を退けた。
姜維を手強しとみた魏の将軍・鄧艾は姜維と戦わず、迂回路を通って、蜀の都、成都を攻める。
道中、諸葛亮の子、諸葛瞻も善戦するが、鄧艾を止めることはできなかった。
そして、成都に到着すると劉禅はあっさり降伏した。
姜維は劉禅の命でやむなく降伏した。
その後、黄皓は捕らえられ、司馬昭によりずたずたに切り裂かれて殺された。
これで、漢は完全に滅亡することとなった。
姜維は鍾会をそそのかして魏に対し反乱を起こすが、兵士たちはついてこなかったため、殺された。
なお、劉禅は洛陽に送られ、65歳まで余生を過ごした。
司馬昭は晋王の座に付き翌年、265年54歳で病死した。
後は長子である司馬炎が継いだ。
そして、同年、魏の皇帝曹奐(曹操の孫)に禅譲をせまり、魏を滅ぼした。
孫権の晩年
孫呉は諸葛亮の生前からも魏と戦いはあったが、戦線は膠着したまま月日が流れた。
孫権はそもそも中国全土の統一や、漢朝の復古は望んでいなかったのである。
二宮事件
※二宮事件は演義に出てこないが、孫呉が滅びる大きな原因。
孫権が老害の中の老害と化す、孫呉最期の物語。
229年 孫権は皇位につくと、後継者に長子である孫登を指名する。
孫登は聡明だったが、33歳に若くして病死する。
その後、後継者、孫和と兄弟の孫覇の間で派閥争いに発展する。
もともと孫権は孫登のあと、孫和を後継者に指名したが、そのあと孫覇も後継者と同じようにあつかい、意志をはっきりさせなかったので、重臣たちで派閥争いが起こった。
この争いは約10年ほど続き、この間に呉の英雄である陸遜も孫権から問責され、流刑の後、死に追い込まれた。
250年に孫権は事態の収集を測るため、孫和を廃立、孫覇には自殺を命じた。
この間に呉の有能な人間の多くが政争で死んでしまった。
このときに孫権が後継者に指名したのが孫権7番目の子、孫亮(8歳)
孫権は孫亮を溺愛していたのである。
帝位に付いたのは10歳。
10歳のこどもに政治ができるはずがなく、孫権の死後は諸葛恪(諸葛亮の兄である諸葛瑾の息子)と孫峻(そんしゅん、孫権の親戚)が実権を握ることになる。
諸葛恪と孫峻
孫権が存命時に、諸葛恪に質問した。
「君の父の諸葛瑾と、劉備に仕えている叔父の諸葛亮はどちらがえらいか?」と。
諸葛瑾も呉の大将軍まで勤めた有能かつ偉大な人物で当時の評価も後世の評価も高かったが、共に、流石に諸葛亮には遥かに及ばなかった。
しかし、諸葛恪は答えた。
「父です。叔父は仕える主を間違えました。」と。
孫権は喜んだが、諸葛瑾は「息子は頭が良いが口先だけで実力がない。我家を栄えさせるのは息子だが、滅ぼすのも息子だろう。」といった。
当初は、諸葛恪・孫峻ともに協力していたが、諸葛恪が魏討伐に失敗すると次第に対立。
孫峻は諸葛恪をクーデターにより殺害する。
諸葛瑾の予言は的中することとなる。
また、孫峻は孫権の元後継者の孫和にも難癖をつけて、自殺させる。
孫権の娘である 孫魯班と密通する。宮女に手を出すなど、全権を握った孫峻は呉の専横を極める。
孫峻を失墜させようと、孫権の孫、孫登の子、孫英がクーデターを企てるも露見し、孫峻は逆に孫英を殺害。
さらにクーデター未遂は続き、身内同士(というか孫権の子供同士)でコロシアイが続く。
このころ、魏でもクーデターが続いており、孫峻はスキをついたつもりで攻めるが機を逸し敗走。
その後、孫峻は身内同士のコロシアイの世界にいたせいか、精神に異常をきたす。
ある日、『味方の陣』をみた孫峻はその統率が素晴らしく、自分を殺そうとしているのではないかと、疑心暗鬼になり体調を崩し、さらに諸葛恪に殴られる夢を見たことがきっかけにさらに精神に異常をきたし病死する。
孫峻の死後は孫綝(そんちん 孫峻のいとこ)が跡を次ぐことになる。
孫綝と孫亮
孫綝も専横の限りをつくしたので、呉の皇帝孫亮は孫綝を排斥することを計画。
しかし、逆に孫綝がクーデターを起こし、孫亮を廃立。
孫亮の異母兄である孫休が皇帝に立てられる。(孫権の6番目の子)
孫綝は孫休も利用し、不要になれば廃立するつもりでいたが、今度は逆に皇帝孫休に殺害される。
孫休はその後親政したが、264年死亡する。
孫休の後は孫権の孫、孫和の3子である孫皓がついだ。
晋の統一
孫皓は当初は善政をしいたが、後に暴政をしき、さらに皇族と忠臣を次々と粛清、後は加速度的に崩壊
かくして、孫呉は孫権が後継者を正式に決めなかったことが原因で、身内同士で殺し合い、滅びた。
279年、晋が攻めてきたがどうすることもできず、280年 司馬炎の晋により中国は統一されることとなる。